「一茶から考える現代」1
「古志」7月号、特集「一茶」に掲載されたインタビュー企画「大谷弘至主宰インタビュー 「一茶から考える現代」」を抄出して転載します。
あらたに注をつけて補足していますので、すでに誌面でご覧になった方もあらためて読んでいただけたらと思います。
YouTube「「古志」最新号を読む」でも取り上げていますので、併せてご視聴ください。
今回の主題は、一茶の時代にはすでに近代化がはじまっていたということ。そのため現代社会の諸問題の萌芽がすでに一茶の時代にみられるということです。
原稿を作ったのが4月頃ということもあり、コロナ禍をふまえたものになっています。
まもなく発行される「古志」8月号では引き続き「ポストコロナ社会と結社の未来」というテーマで掘り下げていますので、こちらのほうもぜひご覧ください。
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「一茶から考える現代」(抄)その1 大谷弘至(聞き手 辻奈央子・平野皓大)
■大衆化社会と「生きている実感」
大谷 新型コロナウイルスの蔓延でさまざまな社会的な問題が顕在化しましたが、気になったことはありましたか?
辻 身近で言うと、デマや噂が気になりました。デマだとわかってからもいまだに尾を引いているのが、トイレットペーパーの買い占めです。在庫はあると報道されているにも関わらず、店頭に出た途端に買い占めが始まるので、私はこの二ヶ月ほど自宅近くの店でトイレットペーパーを見たことがありません(四月上旬現在)。皆が一斉に買うのをやめないと、この騒動は収まらないでしょう。自分一人が買うのをやめても意味がないだろうという気持ちからでしょうが、その気持ちは、自分一人が出かけても影響ないだろうというものに通じ、新型コロナウイルスを蔓延させることにもつながります。個が集まれば集団となり、良い面にも悪い面にも作用します。今回の騒動は、「社会の中の自分」であることを考える機会にもなったのではないかと思います。
大谷 個々には頭脳があって、知性があって、理性があるはずなんですが、それこそウイルスに頭脳を支配されたかのように動いてしまう。集団というレベルで俯瞰してみると完全に機能不全に陥ってしまいました。集団になると正しい判断ができなくなる。
ただ、このことは緊急事態だからこそ、よりはっきりと見えてきただけで、実際にはふだんでもいろんなシチュエーションで起きていることだと思います。これは以前、「古志」二十五周年記念大会のおりに講演させていただいた内容とも重なることです。
とはいえ、現実的に解決するのは非常に難しい問題だと思います。デマを流した人たちはともかく、買い占めをしている人たちの大半は被害者でもあるので、かれらを非難するだけでは解決にはなりません。おっしゃるように「社会の中の自分」ということをそれぞれが冷静に考えるしかないと思います。
辻 また、デマや噂を見極めるには、日頃から自分の感覚を磨くことが大事だと思いました。今やわからないことがあれば、ネットで検索するのが日常となっていますが、正誤があやふやだったり、フェイクニュースが多かったりするのが常です。自分の感覚を研ぎ澄ませて情報を取捨選択するとっさの判断が必要だとあらためて思いました。
大谷 ネットもそうですが、今回、テレビなどのマスメディアがいかに機能していないかが非常にはっきりしました。結果的に買い占めを煽ってしまったり、三密を守れなかったり、マスメディア自体がいちばん混乱していました。視聴率やスポンサーを第一に、大衆を喰い物にすることばかり考えてきたことのツケでしょうね。
いちはやく多くの情報が集まる機関であるわけですから、本来いちばん冷静かつ迅速に動かなくてはいけない立場だと思うのですが、世間が対策を取り始めた頃になってもテレビ局には危機意識すら感じられませんでした。ふだんどおりに番組を流していました。大衆を相手にするうちに大衆的なものにどっぷり浸かってしまい、みずから考えることを忘れてしまっていた印象です。
辻 大衆を相手にするということは難しいことです。発信者は反対意見やクレームを恐れ、まわりの顔色を伺いつつ、ある程度多くの大衆が納得する考えをまとめがちですが、これだという芯の通った、ぶれない考えを示せば大衆はついていくものです。今回、これは政府にも同じことが言えると思いました。
大谷 こうしたことは一茶の時代に生まれた大衆というテーマとつながっていきます。日本における大衆の起源を考えると一茶の時代に行き着きます。一茶の時代、文化文政の頃に大衆が勃興しました。平和な時代が続き、庶民にあるていどの経済的余裕が生まれたのです。その結果、大衆文化が確立しました。浮世絵にせよ、小説にせよ、芸術や文学が大衆向けに作られるようになりました。俳諧にしても、それまでは文学を愛好する一部の階級の人びとだけのものだったのですが、大衆が享受するようになったのです。それは文学の質を大きく変化させました。ある面ではそれを進化と捉えてもいいと思います。ただ、問題は大衆が求めるものがウケるようになり、それに応じて作品が作られるようになったことです。芭蕉の時代と一茶の時代の俳諧の質的変化はそこにあると思います。一茶の時代から俳諧(俳句)もまた大衆に商品として消費されるようになったのです。(注・文化文政時代の文学や芸術がほかの時代のものにくらべて評価されてこなかった大きな原因はこの点にあると思います)
さっきいったように、集団になると人は正常な判断ができなくなることがあります。(注・みんながとびつくものにとびついてしまう。衆愚の状態。)現代ではそこにマスメディアも介在してきます。マスメディアがしっかりしているならばよいのですが、そうでないことは今回の新型コロナの件でも明らかです。本当にすばらしい芸術や文学がどこにあるのかということは、いっそう見えなくなっていると思います。
辻 これまでもマスメディアはインターネットに脅かされたりなどし、利用者離れが叫ばれていましたが、ここへきて新型コロナウイルスの騒動です。緊急時に力が発揮できなければ利用者はさらに離れるでしょう。まさに今マスメディアの力が試されていると思います。こうした状況でわれわれも信じられるメディアや情報を見極めることが大切です。
平野 俳句の現状の薄っぺらさを考えてみたとき、はじめ頭に浮かんだのは「生きている実感」の薄さと、関連しているのだろうかということでした。東京に均質化された景色がつづいて、土地の文脈と切り離された機能重視の建物が並んでいる。そうした風景の中で生活しているのは、自分自身まで単純化されてしまう気がして、生活に物足りなさを感じます。
どうすれば生活に厚みが生まれるのかを考えてみたところ、自分の答えの一つとして、過去の積み重ねと、自らを接続することに至りました。歴史のダイナミズムの中に、自分が幅を持っていると思い込む事で、より現実に直接触れることができるのではないか。その点で俳句を書く行為は自分に必要になります。
しかし、現在の俳句は商業ベースに機能が重視され、簡単につくれるという点ばかり、焦点を当てられています。季語は歳時記というカタログから、必要に応じて拾ってくるようで、過去の積み重ねと自分を繋げてくれるものでは、ないのかもしれません。季語を詠むことで「生きている実感」を得ることは可能でしょうか。
また、例えば盆栽は収縮された風景を表現しながら、身の回りにある自然そのままとは違い、人工化や省略が行われています。つまり、コードの中で人間が構築した人工の自然と言えます。俳句も同じ収縮がされていると考えています。そのとき季語に実在性はあるのでしょうか。現実を写し取った記号として、現実と乖離してしまっているのではないか、そして乖離しているからこそ消費できるのではないでしょうか?
大谷 「生きている実感」の薄さというのは、ぼくも感じるところす。とくに平野さんは学生なので、それをより鋭敏に感じとっているのではないかと思います。ぼく自身は高校生の時にそれを強く感じて、高校を中退しました。毎日ひたすら受験へ向かって変化のない日々が続き、人間の価値が偏差値で決められるシステムに組み込まれてしまうことに耐えられなかったのです。
その後、アルバイトで魚屋に入りました。そこで日々、大量の魚を捌いたのですが、例えばおなじ鯛であっても、その一匹一匹の魚の顔に違いがあることに気づいたんです。吊り目であったり、タレ目であったり、おでこがはっていたり、下顎が出ていたりと、よくみるとおなじ鯛でも顔がぜんぜん違う。一匹として同じ顔がないんです。それ以来、かれらは海の中でどんな暮らしをしていたんだろうかと想像するようになりました。そうした命を頂くことで自分が生かされていることに気づいたことで、すこしだけ「生きている実感」を得られるようになりました。(補足・お客さんを相手にすることで、社会との結びつきも得られました)
スーパーでは魚は切り身になった状態で売られていることが多いですね。ですので、魚の顔の個性なんかは、ふだんなかなか実感しにくい部分だと思います。均質化された現代の生活環境のなかでは、気づくことができないことがとても多い。しかし、そんな生活にあっても、俳句を詠むことをとおして、季語を意識することをとおして、そうしたものに気づくことができるのではないかと思います。ぼくが魚を捌いていて気づいたようなことをことばで形にしていくのが、俳句のひとつのありようではないかという気がします。
均質化された世界のなかに埋もれてしまっていること、みんなのなかで意識されなくなっていることを素手で掴みあげてくるような力強さがいまの俳句には必要なのではないかと思います。
盆栽に詳しいわけではありませんので、盆栽を例に正しいことがいえるかどうかわからないのですが、俳句が盆栽のようになってしまっていることが、最近の俳句の薄っぺらさにつながっていると思います。
たしかに俳句も人工的に収縮する過程を踏むと思いますが、本当にいい俳句であれば、そこから爆発があるはずです。あたらしい宇宙が生まれるようなビッグバン的なものです。なんだか岡本太郎みたいで申し訳ないですが、感覚的に伝わってくれればと思います。詳しくないのでわかりませんが、やはりすぐれた盆栽にも爆発があるのではないでしょうか。
一茶でいえば〈露の世は露の世ながらさりながら〉は爆発していると思います。〈さりながら〉のところで爆発しているのです。いったん世界が一粒の露に収縮されながらも、収縮したぶん、反動するエネルギーがある。近年の俳句が薄っぺらいのは収縮だけしかしていないからだと思います。
だいぶまえですが、ぼくが尊敬するギタリストが最近のロック・ミュージックについて、「ロックはできているけど、ロールができていない」といった内容の話をしていましたが、俳句もそんな感じじゃないでしょうか。ちなみにロックするのはかんたんらしいですが、ロールさせるのはとても難しいらしいです。一茶でいえば〈さりながら〉がロールの部分だと思います。
俳句も音楽もどんどん小さくなっていて、それで満足している、もしくはそれで妥協せざるをえない状況に陥っているのではないでしょうか。問答無用で人の心を鷲掴みにするような爆発が必要だと思います。
平野 爆発という感覚は難しいですね。形式化した俳句を内側から食い破っていく、そんなエネルギーのことでしょうか。そのように解釈したとき、反動するエネルギーを意識的に作りあげることは可能でしょうか。エネルギーを持った句とは、無意識のうちに偶然出会うしかないのではないか、と考えてしまいます。ただ、ロールをしようと強く心に抱かなくては、一生出会えないものでもあると思います。
大谷 そのとおりだと思います。意識しているからといって、必ず生まれるかといえば、そうではないと思いますが、しかしながら、ふだんから意識しておかないと永遠に生まれないと思います。型どおりの俳句は簡単に作れるかもしれませんが、ほんとうにいい俳句はなかなか作れないものです。
(2へ続く)
※このインタビューは新型コロナウイルスによる緊急事態宣言およびそれに伴う外出自粛要請を受け、当初の予定を変更してEメールによるやりとりによって構成しています。
※転載にあたっては聞き手の辻奈央子さん(「古志」編集長)、平野皓大さんの許可を得ています。
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