命よりお金の世の中

  老が身の値ぶみをさるるけさの春   一茶


【意訳】年老いたわが身を侮られて、価値のない人間であると値踏みをされる。そんな時代となったこの元日だ。                     季語:今朝の春(新年)


今回の新型コロナウイルスの騒動でまっさきに思い浮かんだ句です。


「値踏みをする」、これは文字通り、値段を見積もる、という意味ですが、年老いた一茶が値踏みをされている。

その人間としての存在価値をあたかも商品の値段を見積もるように世間からみられていると一茶は感じているわけです。

人間の価値をお金に換算するような世の中を憂いている。そんな一句です。


とても心が痛む話ですが、新型コロナの感染拡大の影響で、海外では命の選別が行われました。

イタリアなど、一部の国では病院が医療崩壊を起こしてしまい、ベッドや人工呼吸器が足りなくなってしまいました。


そこで高齢者の方々の治療は後回し、もしくは断念されたのです。悪い言い方をすれば、見殺しにされた、せざるをえなかったということです。現場は苦渋の決断だったと思います。

誰もが思うことですが、こうなってしまう前にどうにかできなかったかものでしょうか。


一歩間違えれば、日本でも同じ状況が起こったかもしれませんし、第二波、第三波が来れば、これから日本でも起こってしまう可能性があります。


振り返ってみれば、今回、新型コロナの感染が拡大し始めたとき、二月の終わりから三月にかけてのことですが、この間、国や都はなんの対策も取りませんでした。


御存知のとおり、緊急事態宣言が出されたのは、四月七日、東京オリンピックの延期が決まってからのことでした。


もしこれが、せめてもう数週間早く、緊急事態宣言が出されていれば、現在の状況ははるかにマシなものになっていたと思われます。自粛期間ももっと短くて済んだかもしれません。

これは実際、多くの人が望み、多くの識者が指摘していたことでもあります。


しかし、国や都はオリンピックの経済効果、商業的利益の確保を優先しました。

一茶の言い方でいえば、わたしたちの命と健康が値踏みされ、ないがしろにされたのです。


われわれの命と健康がないがしろにされ、オリンピックによる経済効果が優先される。

つまり命よりもお金。わたしたちはそうした時代に生きています。


コロナの問題を抜きにしても、日本には2025年問題が控えています。

2025年は御存知の通り、団塊の世代が一気に後期高齢者となる超高齢化社会が到来する年です。

年金の財源をどうするか、介護の問題をどうするかといった福祉の問題で、社会のバランスが大きく崩れ、世代間の格差が一層広がっていく、ひいては世代間の軋轢が増し、溝が深まるのではないかと懸念されています。


高齢者が軽んじられる。命の選別が行われる。そういった世の中は望ましくない。それはだれもが思うことです。


生きていれば、誰しもいずれは老いを迎えます。


それにもかかわらず、お金でものごとの価値を判断する社会にあっては、労働力にならない、金を生まない老人や病人は軽んじられてしまいます。


一茶の時代もまた高齢化社会を迎えていました。

一茶自身、長く生きました。65歳まで生きています。現代の目からみると65歳というのは、まだまだ若いですが、江戸時代をとおしてみるとかなりの高齢です。


江戸時代になって戦争のない期間が続き、貨幣経済が庶民に浸透していくにしたがい、庶民の寿命が伸び、江戸の後期、一茶の時代にはすでに、現代と似たような高齢化問題があらわれ始めていたのです。


高齢化社会に生まれた「ひずみ」。


そうしたものを一茶は身を持って感じていたのです。


一茶の〈老が身の値ぶみをさるるけさの春〉はそうした社会的背景があって生まれた一句です。


このように一茶の時代は貨幣経済の浸透によって、社会や個人の生活が大きく変化し、同時にひとびとの価値観や価値基準にも大きな変化が起きた時代でした。


一茶の時代は、人の命や尊厳よりもお金が優先される時代だったのです。


こうした状況は現代の私たちの社会ととても似通っています。


※俳句鑑賞講座「小林一茶「あるがまま」の生き方〜苦難の時代を乗り越える」(砂町文化センター(石田波郷記念館)主催)第一回「一茶の時代〜現代と共通する社会問題」より。

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