連歌師宗長と駿府 (前編)
すでにYouTube「「古志」最新号を読む」のほうでお話した内容ですが、連歌師宗長と駿府についてまとめてみます。話で聞いたほうが早いという方は動画を御覧ください。(46:53あたりからです)
文安五年(1448)、宗長は駿河国島田の刀工の息子として生まれました。
幼少から駿河の守護大名、今川義忠(桶狭間の戦いで有名な今川義元の祖父)に仕えます。
今川家は京の文化を駿府に積極的に持ち込みました。
理由は今川家がもともと足利将軍家の別家であったことが大きいと思われます。
そのおかげで駿府は文化度の高さでは指折りの都市になりました。
ちなみに今日、私たちが「日本文化」といわれたときにイメージするものの原型はほぼ室町時代に完成されたといわれています。
猿楽や狂言、茶の湯、水墨画、そして連歌です。建築などもそうです。
日本文化の完成期、それが宗長たちが生きた時代でした。
ただ、当時は戦乱の世でした。応仁の乱のまっただなか、主君・義忠が戦死してしまいます。
それをきっかけに宗長は上洛し、宗祇のもとに弟子入りします。宗祇といえば、芭蕉も尊敬した連歌師です。
芭蕉が書いた『笈の小文』の序はあまりにも有名です。
「つひに無能無芸にして、ただこの一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、 雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道する物は一なり」
俳諧はもともと連歌から派生したものです。それもあって、芭蕉は宗祇を深く尊敬し、愛読していました。
世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇
世にふるもさらに宗祇のやどりかな 芭蕉
この唱和も有名です。
〈時雨〉はさっと降ってさっと止むことから、儚くあわれなものの象徴とされました。宗祇は〈降る〉と〈経る〉をかけて、「人の一生とは時雨を雨宿りするくらいのもの、つまり、人生ははつかの間に過ぎ去っていく、はかないものだ」といったことを詠んでいます。
〈時雨〉はのちに芭蕉の重要なモチーフになりますが、そこには宗祇の影響があったといえるでしょう。
宗祇は旅に生きました。連歌を巻きながら日本各地を巡ったのです。
そんな宗祇に付き従って宗長も諸国を旅します。
いっぽうで京に居るときには、文化的教養のある公家たちと交流しました。
禅においては一休宗純に弟子入りしています。
そうして宗長の連歌は磨き上げられました。
『水無瀬三吟』は連歌のお手本といわれる古典のなかの古典です。
宗祇、肖柏、宗長の師弟三人で巻いた連歌(百韻)です。
雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
現代のわたしたちの荒んだ心にすっと染みわたるような透明感があります。
連歌については私は専門的な見識をもちませんが、それでも声に出してなんども読みたくなるようなうつくしい詩の連なりだということは感覚的にわかります。みなさんもそうではないでしょうか。
宗長の第三に宗祇はつぎのように付けます。
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 宗祇
ふだん俳諧(連句)に慣れている身からすると、付きすぎのようにみえますが、そうしたことはいったん忘れて、そのうつくしさを味わうべきでしょう。当時の連歌とはこういったものでした。
(後編に続く)
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