季重なり
先日の「「古志」最新号を読む」のなかで、
季重なりについての質問がありましたので、あらためてここで考えをまとめておきます。
質問の詳細は動画を御覧ください。
一句のなかで季語が二つ以上使われていることを季重なりといいます。
俳句の世界では「季語は一句に一つ」と信じられています。
ですので、季重なりは禁じ手、もしくは俳句を知らない人がやってしまうこととして扱われます。
しかし、「季語は一句に一つ」という考え方はあくまでも「初心者が作りやすいように」「初心者が季語を覚えるように」というハウツー的配慮でしかありません。
それを後生大事に守っていても、年を追うごとに創造性が失われていくだけです。
季重なりを気にする必要はありません。
目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂
芭蕉の盟友・素堂の有名な句ですね。鎌倉で詠まれたものです。
夏の到来を言祝ぐのがこの句の意図です。鎌倉という土地への挨拶でもあります。
青葉(夏)、ほととぎす(夏)、初鰹(夏)と初夏の風物詩をこれでもかとばかりに盛り込んだことで、一句がとても豊かで、にぎやかで、喜びに満ちたものになっています。
山のものだけかと思いきや、海のものまで届くという、その盛り過ぎなところも含めて、ある種、突き抜けた感じがあるのが、この句が江戸時代から現在まで語り継がれているゆえんではないでしょうか。
もしも季語を一つに絞って詠まなくてはいけないとしたら、
この句は生まれなかったはずです。試しにつぎのように推敲してみましょう。
目には葉っぱ山に鳥声初鰹
これでは台無しです。
素堂は夏が来たことの喜びを詠みたかった。初夏の鎌倉のテロワールを表現したかった。
その結果、季重なりになった。そしてそれが成功したということだと思います。
季重なりは必要に応じて使うべきなのです。
頭ごなしに季重なりを否定していては、その物差しからはみだしたものをしっかり捉えることができません。
はじめは誰しも「季語は一つ」と教えられるかもしれませんが、どこかでそうした物差しに頼らずに、そのとき、そのときに応じて、じぶんの頭で考える力を養わなくてはいけません。
こうしたことは俳句にかぎったことではありません。
今回の新型コロナの件ではっきりしましたが、
従来のイデオロギーに基づいて個々の社会問題について判断するのでは、現実が追いつかなくなっています。
古びた物差しにとらわれず、一つ一つの問題を柔軟に判断していく力がポストコロナを生き抜くには必要になってくるのではないでしょうか。
俳句の現場も硬直化がみられます。
どこで借りてきたかもわからない古い物差しは早めに捨てて、
柔軟で創造性に溢れた句作りを心がけましょう。
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