連歌師宗長と駿府(後編)

明応五年(1496)、四十九歳の宗長は駿河に帰住し、丸子の柴屋寺に庵を結びます。


そしてふたたび今川家に仕えます。当主は義忠の息子、氏親です。

今川義元の父といったほうがわかりやすいでしょうか。北条早雲の甥でもあります。


以後、宗長は京と駿河を往復することになります。


当時の連歌師は、たんに文学者というだけではなく、京の最新の文化を地方に伝播する役割も担っていました。


諸大名のなかでも、文化に強い関心を持つ大名家も少なくありませんでした。


西国でいえば、周防(山口県)の大内家が有名です。

雪舟を庇護したり、宗祇を招いたりしています。山口市には瑠璃光寺が残っており、大内文化の面影を偲ぶことができます。


駿府の今川家もそうした大名の一つです。


当主・氏親は東国最古の分国法「今川仮名目録」を制定するなど、政治家としても優秀でしたが、同時に和歌や連歌にも造詣が深かったようです。


そのため、宗長は氏親に重宝されました。文化の運び役としてだけでなく、朝廷や将軍家、諸大名との外交でも重要な役割を担ったと考えられています。


いわゆる今川文化とよばれる駿府の文化的発展は、宗長の存在なしには実現しなかったかもしれません。


話は変わりますが、徳川家康は幼少期から青年になるまでのあいだ、人質として今川家の駿府で過ごしました。

のちに今川家を倒し、駿府を手中に収めると、すぐに本拠地を岡崎から駿府へ移します。

豊臣家の天下となった際には秀吉の命により江戸に移されますが、その後、幕府を打ち立てると、すぐに江戸を去り、駿府に隠居します。

家康は駿府に相当こだわっていたようです。


生まれこそ三河ですが、家康にとってふるさとといえるのは駿府だったのかもしれません。

それと同時に駿府の文化度の高さに魅力を感じていたのではないでしょうか。

当時の江戸はまだ発展を開始したばかりの新興都市で、およそ文化とは縁のない状況でした。

駿府には家康が慣れ親しんだ今川文化の薫りがなお残っていたのではないかと想像されます。


さて宗長ですが、年を経るにしたがい、その作風は諧謔へと傾いていきます。


正月のある夜、宗長は自分の身体から玉(魂)が抜け出るという不思議な夢を見ます。

そこで詠んだのが、つぎの歌です。


    見限りて我が身出で行く報ひなん銭の御玉入り替はり給へ 宗長


意訳すれば「老いたわたしの身体を見限って魂が出ていくが、そのかわりに銭が入ってきて欲しい」といった感じでしょうか。

『水無瀬三吟』の清澄な気品からは想像もつかない作風の変化です。


宗長はのちに俳諧の祖といわれる山崎宗鑑と俳諧に興じることもありました。

仲間うち六、七人で囲炉裏を囲み、味噌田楽をつつきながら楽しんだといいます。

時代は連歌から俳諧へと移っていきますが、宗長の作風の変化はそういった時代の流れの顕れだったのではないでしょうか。

戦乱に疲弊していた人々の心は次第に諧謔を求めるようになっていたのかもしれません。


もしも、もうすこしだけ宗長が遅れて生まれてきていたならば、宗長こそ俳諧の祖と呼ばれていたかもしれません。

宗長と今川文化はいまのわたしたちの俳句の源流でもあるのです。


ひるがえって、わたしたちはいま、コロナ以後の社会や文化について考えていかなくてはいけません。俳句のありようについてもそうです。


これからのポストコロナ社会では、これまでの中央集権的な社会から、地方分権型の社会にシフトチェンジしていくといわれています。


これまでのように東京に住むことにこだわらなくても仕事はできますし、学ぶこともできます。地方の良さがあらためて見直される時代になるはずです。

それぞれの地方がもつ文化や歴史がおのずから注目されるでしょう。


そうした地方分権化の流れは、たんに政治的・経済的な危機管理という点だけでなく、均質化してしまった世界に彩りを与えるという点でも、よろこばしいことだと思います。


宗長と今川時代の駿府はこれからの地方文化のありようのひとつのお手本になるのではないでしょうか。



【参考】

「水無瀬三吟百韻」『新編日本古典文学全集61 連歌集 俳諧集』(小学館、2001年刊)

『戦国を往く連歌師宗長』鶴崎裕雄 (角川書店、2000年刊)

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