左大文字

残暑厳しい折ですが、

いかがお過ごしでしょうか。

京都・大文字のつづきです。

法音寺から大北山の左大文字へ。

奥に見える山が大北山。松明の火がわずかに見えてきました。

ちなみに昼の様子。ぜひ見比べてみてください。

雨が降りしきるなか、山上へ松明が運ばれていきます。

炎による明かりは現代では非日常を感じさせます。

松明の火が中央にかたまっています。

点火へと動き出しました。

20時15分、いよいよ火床に火が灯されます。

わたしどもも割木を納めましたが、

つつがなくご先祖様がお帰りになるよう、祈ります。

ふだん多忙にかまけている私にとって、ご先祖様へ感謝するありがたい機会です。

この時間帯には雨もやんでいました。

火勢が高まっていきます。

まるで映画のセットが炎上しているかのよう。

左大文字では53基の火床に火が灯されます。

煙の量もすさまじいです。

いよいよ火柱となって燃え盛り、

炎が斜面を走っているかのよう。

こうして大の字がきれいな形になっていきます。

衣笠・大北山の左大文字です。

火床ですが、傾斜によっては高さ3メートルのものもあるそう。

人の背丈よりも高い火床。

低い火床は30センチほど。

ちなみに大の字の横棒は長さ48メートル。

左の払いが長さ68メートル。

右の払いは59メートルと左より少し短いようです。

炎を見ていると、不思議と安らかな心持ちになります。

とはいえ、激しく火の粉が散っており、

そばにいると相当熱いと思います。

これだけ大掛かりなことを毎年行ってくださっているのは、

とても大変なことであって、けっして当たり前のことでないので、

関係者の方々には、心から感謝しなくてはなりません。

左大文字の点火時間は30分ほど。

やがて炎の勢いは衰えていきます。

少しずつ火勢が弱まってきました。

この衰えたころが切なくもあり、ありがたくも感じられ、

個人的にもっとも好きな時間帯です。


京都の人たちにとっては、大文字が終わったら、すなわち夏の終わりだそう。


どうぞ良き一日をお過ごしください。

左大文字/五山送り火連合会

左大文字送り火には、その起源に関する伝承はとくに伝わっていません(岩田1990)。 ここでは、歴史史料に見られる記述を紹介します。江戸時代前期の公家・小槻忠利(1600~63)の日記『忠利宿禰記』の慶安2年(1649)7月16日条に、山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也 という記載があり、当時の段階で「西山」と「東山」に一つずつ「大文字」が存在していたことが分かります。ここでいう「山門」とは比叡山のことで、東山の大文字が今の大文字送り火、西山は、今でいう西山(西京区)ではなく、大北山の左大文字送り火のことと思われます。というのも、同時期に鹿苑寺(金閣寺)の住職を務めていた禅僧・鳳林承章(1593~1668)の日記『隔蓂記』には以下のような記載があり、鹿苑寺の山上で大文字が点されていた様子が分かるからです。当山萬燈籠之案内申、予不登山上也(正保3年(1646)7月16日条) 今晩、如毎年当山萬燈籠也(慶安2年(1649)7月16日条) 如毎年山上大文字火調之(慶安3年(1650)7月16日条)左大文字送り火を点す大文字山は、京都市北区大北山鏡石町にあります。旧大北山村は鹿苑寺の門前町を含んでおり、鹿苑寺との関係が深い地域ですので、上記の「当山」は大文字山のことを指しているのではないかと思われます。ちなみに、万治3年(1660)頃の成立とされる絵地図「洛外図屏風」には、東山の大文字、妙法、船形、鳥居形の四つの送り火は描かれていますが、左大文字送り火のみ描かれていません。このことが何を意味するのかも含めて、さらなる検討が待たれています。 8月15日と16日の2日間、金閣寺門前と在所の菩提寺である法音寺(北区衣笠街道町)に設けられた志納所において、護摩木(先祖供養や無病息災の祈願)の志納受付が行われます。午後7時ごろ、法音寺門前通りの24ヶ所の家々の前で門火の送り火を焚き、先祖の霊を菩提寺へと導きます。同寺では、送り火の親火点火台が境内に置かれ、護摩木を焚き、先祖の霊をなぐさめる法要が行われます。その火で親火松明1基と手松明(60本)がともされ、山上へと行列して運ばれ、山上の送り火が点火されます。左大文字保存会 会員数:約65名 かつては旧大北山村の旧家の男系の男性だけで構成されていましたが、現在で

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俳句「古志」主宰 和光大学俳句部顧問

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