法音寺 門火

大文字のつづきです。

法音寺の法要が終わり、

法音寺門前の家々に篝に火が移されます。

こちらは昼の様子。これら24軒の篝に火を移し、門火とします。

松明を持った若い衆が火を点けるべく走り回ります。その速さに写真が追いつきません。

あいにくの豪雨のため、

篝になかなか火が点きません。

悪戦苦闘中。

それでも、しだいに火が移り、

火に勢いが出てきました。

想像以上の強火です。

雨の中でもしっかり燃えました。

門火です。

ご先祖やなつかしい人々を送る火。

そしていよいよ親火松明一基と60本の手松明が灯され、

法音寺から大文字山の山上運ばれ、

左大文字の送り火が点火されます。

豪雨と混雑のため、

今回は松明を追うのはあきらめ、

われわれは左大文字を拝むべく、

大北山の大文字山へと先回りして向かいました。

つづきはまた明日。

どうぞ良き一日をお過ごしください。

左大文字/五山送り火連合会

左大文字送り火には、その起源に関する伝承はとくに伝わっていません(岩田1990)。 ここでは、歴史史料に見られる記述を紹介します。江戸時代前期の公家・小槻忠利(1600~63)の日記『忠利宿禰記』の慶安2年(1649)7月16日条に、山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也 という記載があり、当時の段階で「西山」と「東山」に一つずつ「大文字」が存在していたことが分かります。ここでいう「山門」とは比叡山のことで、東山の大文字が今の大文字送り火、西山は、今でいう西山(西京区)ではなく、大北山の左大文字送り火のことと思われます。というのも、同時期に鹿苑寺(金閣寺)の住職を務めていた禅僧・鳳林承章(1593~1668)の日記『隔蓂記』には以下のような記載があり、鹿苑寺の山上で大文字が点されていた様子が分かるからです。当山萬燈籠之案内申、予不登山上也(正保3年(1646)7月16日条) 今晩、如毎年当山萬燈籠也(慶安2年(1649)7月16日条) 如毎年山上大文字火調之(慶安3年(1650)7月16日条)左大文字送り火を点す大文字山は、京都市北区大北山鏡石町にあります。旧大北山村は鹿苑寺の門前町を含んでおり、鹿苑寺との関係が深い地域ですので、上記の「当山」は大文字山のことを指しているのではないかと思われます。ちなみに、万治3年(1660)頃の成立とされる絵地図「洛外図屏風」には、東山の大文字、妙法、船形、鳥居形の四つの送り火は描かれていますが、左大文字送り火のみ描かれていません。このことが何を意味するのかも含めて、さらなる検討が待たれています。 8月15日と16日の2日間、金閣寺門前と在所の菩提寺である法音寺(北区衣笠街道町)に設けられた志納所において、護摩木(先祖供養や無病息災の祈願)の志納受付が行われます。午後7時ごろ、法音寺門前通りの24ヶ所の家々の前で門火の送り火を焚き、先祖の霊を菩提寺へと導きます。同寺では、送り火の親火点火台が境内に置かれ、護摩木を焚き、先祖の霊をなぐさめる法要が行われます。その火で親火松明1基と手松明(60本)がともされ、山上へと行列して運ばれ、山上の送り火が点火されます。左大文字保存会 会員数:約65名 かつては旧大北山村の旧家の男系の男性だけで構成されていましたが、現在で

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俳句「古志」主宰 和光大学俳句部顧問

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