『笈の小文』を巡る 鳴海 2 鳴海潟

芭蕉の『笈の小文』を巡る旅。

名鉄・鳴海駅に到着。

駅前すぐの扇川


江戸時代から昭和初期まで運河として活用されており、


かつて鳴海には大きな船着き場があり、一帯には蔵が建ち並んでいました。


年貢米を保管する蔵などがあったようです。

扇川は天白川につながっており、各地からここ鳴海へ舟でモノが運ばれました。


いわば舟運のターミナル的な場所だったようです。


もしかすると芭蕉も舟に乗って移動したかもしれません。

さらにその昔、このあたりは「鳴海潟」と呼ばれる干潟でした。


いにしえの旅人たちはここで干潮を待って移動しました。いわゆる「潮待ち」です。

(千鳥 Photo by Canva


その際、千鳥が飛びたつ様子が見られたため、


風吹けばよそに鳴海のかた思ひ思はぬ波に鳴く千鳥かな   藤原秀能『新古今』


鳴海潟岩根に寄する波の音にみなれながらもたつ千鳥かな   作者不詳『月詣集』


春の色も弥生の空に鳴海潟いまいくほどか花もすぎむら  後深草院二条『とはずがたり』


千鳥の名所(歌枕)として和歌に多く詠まれています。

当時の地形については「更科日記紀行」というサイトに詳しいのでご参照ください。

その後、新田開発を目的とした埋め立てが進み、


干潟はすでに江戸時代初期の時点で、


鳴海潟今は塩干に成にけり野並の里に旅人もなし   口伝『尾州鳴海辺之図』


とあるように、姿を消していたようです。

(千鳥 Photo by Canva)


江戸時代以降、鳴海は物流の拠点として、また、東海道の宿場町として発展していきます。

芭蕉は東海道を通るたびに、この鳴海宿を訪れていますが、


当時の鳴海の姿は千鳥が舞い上がる歌枕の姿ではなく、


物流拠点・宿場町として発展した鳴海の姿だったはずです。

つづきはまた明日。


どうぞ良き一日をお過ごしください。

0コメント

  • 1000 / 1000