『笈の小文』を巡る 鳴海 3 千代倉歴史館

芭蕉の『笈の小文』を巡る旅。

「古志」の稲垣雄二さんから教えていただいた千代倉歴史館へ向かいます。

鳴海駅から扇川を渡り、旧東海道へ。


芭蕉も歩いた道です。

古い街道はどこもカーブがきついです。


このクランチカーブは曲尺之手(かねのて)と呼ぶそうです。

ここは鳴海の旧中心地。

ちょうど曲尺之手の突きあたりに菊屋茂富という御菓子司があります。


安政年間創業。建物は昭和初年(1929年)に建て替えられたものだそう。

そしてその少し先に千代倉歴史館があります。

このあたりは芭蕉の門弟だった下里知足の土地です。

下里家(のちに下郷)は桑名よりこの地にうつり、なんと400年。


「千代倉」を屋号とし、


酒造、鉄商、鳴海潟干拓による新田開発など、


幅広い事業を展開しており、


いまでいう総合商社のような存在でした。


あわせて庄屋、年寄、惣年寄も務めており、まさに地元の名士中の名士。


また、代々の当主は俳諧をはじめ文学や芸術に造詣が深かったのです。

知足は二代目の当主で、芭蕉の門弟でした。


記録上だけでも、芭蕉は鳴海宿を四回訪れていますが、


かならず、この知足邸に立ち寄っています。

『笈の小文』の旅においては、トータルで10日間ほど滞在し、


その間、歌仙をはじめ、三つ物や表六句など、


多くの連句を知足ら地元の門弟たちと作っています。

それらは『千鳥掛』(知足編)にまとめられていますので、


いずれ評釈したいと思います。

手ならひの師匠へやるや大根引   知足

五月雨や鷺の乗たる渡し舟

焼飯や伊良古の雪にくづれけん


芭蕉にとっての下里知足という存在を、


一茶の場合に置き換えてみると、


地元の名士という点では、伊予松山の栗田樗堂のような存在であり、


パトロンという点では、流山の秋元家のような存在ではないでしょうか。

詳しくは拙著をご参照ください。

いずれにせよ、たんなる金持ちの道楽ということではなく、


本格的に俳諧に踏み込んでいたことが、その作品からうかがえます。

代々の当主が書き継いだ『千代倉家日記』が残っているのですが、


千代倉歴史館ではそうした貴重な歴史資料を観ることができました。(館内撮影不可)

つづきはまた明日。


どうぞ良き一日をお過ごしください、


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