釜屋の渡し

おはようございます。


晩秋の候、いかがお過ごしでしょうか。

本日は地元・江東区の「釜屋の渡し」をご紹介します。


「渡し」といえば、「矢切の渡し」が有名ですが、


ここ小名木川にも、かつて「渡し」がありました。


それが「釜屋の渡し」です。


小名木川を挟んで渡し舟が往復していたのです。


上大島村(大島一丁目)と八右衛門新田(北砂一丁目)を南北に結ぶものでした。

ところで、「釜屋」と聞いて、何か思い出すことはありませんでしょうか。


そうです。先日の記事でご紹介した「釜屋堀」です。

江戸時代初期、太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門という鋳物師が、


近江から移り住み、この地で鍋や釜を作って売る商売を行っていたことから、


この地に「釜屋堀」と名がつきました。


「釜屋の渡し」の名前の由来もまた、この「釜屋」からきています。


ちなみにこの釜屋、明治以降も存在していたようで、

写真の写真で見えにくいですが、明治末頃の様子です。


近代以降も鍋釜鋳物製造所として稼働していたんですね。


「釜屋の渡し」は北岸の工業地帯(釜屋堀)と


南岸の田園地帯(八右衛門新田)を結ぶものだったわけですが、


こうした「渡し」が各地にあったのは、


幕府が江戸の防衛機能を最優先に考えていたため、


江戸市中に橋を架けることに極めて消極的であったことによります。


橋があれば、敵の進軍が容易になり、防衛が難しくなるからです。


そのため庶民の交通の便は後回しとなり、


わざわざ舟を使って川を渡っていたのです。


「釜屋の渡し」は明治以降もそのまま残り、


なんと昭和17年までは営業していた記録があり、


廃止されたのはそれ以降のことだそうです。

橋があるのを当たり前と思ってはいけませんね。


なんだかんだで、便利な時代です。


どうぞ良き一日をお過ごしください。



0コメント

  • 1000 / 1000