「古志」深川句会(6月)を終えて 1
今月も江東区森下文化センターでの開催です。
第一句座、当季雑詠、特選句から。
初恋の相談にのる端居かな 仲田寛子
端居というと、老人をさびさびと描いた句が多いのですが、
この句、相談に乗ってあげているのは老人(少なくとも大人)なのでしょうが、
相手は思春期くらいでしょうか。幼い子どもかもしれません。
そんなシチュエーションが新鮮でした。
水馬の水輪に水輪戦なく 谷村和華子
水馬(あめんぼ)は互いに距離を取って、
水輪がぶつかることはありません。
いっぽうで人間は戦争ばかりしています。
よほど水馬のほうが平和的で進歩的ではないかと、
言外に含ませています。
この「言外に」というところが俳句では大事です。
反戦、厭戦の句は世に多いですが、
大半は散文的な句ばかりです。
そのまま表現しても、新聞やニュースが散文で伝える文言となんら変わりなく、
俳句の強みが生かせません。
季語に託して、余白を作りながら、しっかりと自分のことばで表現にしていく。
そうしたことの大事さをこの句から学ぶことができます。
さみだれの国に生まれてみどりごよ 篠原隆子
まず〈さみだれの国〉がしっかり決まっています。
この日本のことを〈さみだれの国〉と言っているのです。
しかも一句を声に出して読むと、とても語感(リズム)がいいです。
みどりごの〈みどり〉も生きています。
青々とさみだれが降り続く、湿気の高いなか、
みどりごが生まれまてきたというのですが、
それについて、めでたいとも、うれしいとも、かわいそうだとも、なにとも言っていません。
感情は〈よ〉の一語のみ。
あえて突き放すような表現をとっています。
結果、余白を大きく取ることが出来ています。
そのため、読者は自由におのれの思いを重ねて読むことができるのです。
大柄な一句です。
羽抜けしことさへ忘れ鶏はゆく 大場梅子
羽抜鶏というと、悲惨さばかりを強調して詠まれがちですが、
この句はそこを一つ突き抜けて、
もはやじぶんが羽抜鳥であることさえ、
忘れてしまっているといっています。
いっそう悲惨な状況ですが、
しかし、突き抜けているがゆえに、
かえって健やかで、安心立命すらおぼえます。
それはこの鶏がもはや〈羽抜〉ということに囚われていないからです。
わたしたちが日常、がんじがらめになっている、
さまざまな「とらわれ」を一つ一つ剥いで落として、
軽くなっていくことこそ、
俳句的な生き方です。
この句は暗喩(メタファー)によって、
「とらわれ」のない姿をうまく描き出しています。
小名木川。会場近くの高橋から。
句会場には「のらくろ館」が併設されています。
ぜひお越しください。
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