一茶とウイルス
おもえば、これまでも人類はウイルスと闘っては、そのたびに感染症を克服し、ウイルスとの共生の道を歩んできた。ペスト、天然痘(疱瘡)、黄熱がその代表的なものだ。われわれにとって身近なインフルエンザもそうだ。
文政二年(一八一九)、一茶は天然痘ウイルスによって幼い娘・さとを失っている。
『おらが春』によれば、発症当初は重症だったが、二、三日もすると瘡蓋が取れはじめたので、まもなく癒えるだろうとみていたところ、みるみる症状が悪化してしまい、あっけなく亡くなってしまったという。
当時、天然痘による致死率はおよそ二十パーセントから五十パーセントだったとされる。一歳の小さな身体にはウイルスはあまりにも苛烈なものだった。老いて授かった可愛い娘である。一茶の悲しみは一方ならぬものであった。
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
だれもがどこかで一度は聞いたことがあるこの句は、まさにさとを亡くしたときのものである。
一茶はこの句に続く文章において「この世が無常であることは十分わかっているけれども、それでも愛する者を失うことはあきらめがつかない」とやりきれない胸のうちを吐露している。
一茶以前の作家たちは仮に娘をウイルスで失ったとしても、「世は無常」ということでじぶんを納得させていた。「しょせんこの世は露の世なのだから、人の命など昼がくる前には消え去る露のようなもので取るに足らないもの」だと考えるのである。これは一種の悟りの境地である。
そうしたありようもまた、ひとつの見識であり、こころの平穏の保ち方としては、よい方法だったのだろう。しかし、本当にそこまで割り切って生きていけるのは、禅などで厳しい精神修養を積んだ一部の人たちか、放浪癖があるようなもともと特殊なタイプの人たちだけである。そしてなによりも問題なのはこうした割り切りをしてしまっては思考停止になってしまう。文学や芸術に停滞を生んでしまうのだ。
一茶は違った。そうした悟りを踏まえながらも、もういちど煩悩の境地にわが身を戻して、娘の死と向き合い、正直な思いをことばにしている。こうしたありようは、のちの自然主義文学をおもわせる。
一茶が生きたのは大衆が勃興した時代である。当時の江戸の庶民も「世は無常」ということは、ことばの上でも、感覚の上でもじゅうぶんわかっていた。芝居や俗謡をとおして知っていたのである。そのあたりは現代のわれわれと変わるところはない。
しかし、頭でわかっているからといって、実際にそのようにできるかとなると、また違ってくる。「世は無常、それはわかっているけれど、いざとなると受け入れることができない」というのが当時の大衆の素直な感覚であった。
一茶の〈さりながら〉はそうした大衆の感覚をみごとに反映している。大衆的感覚から文学が生まれる時代になったのである。
一茶はしばしば天然痘(疱瘡)を詠んでいる。
灯ちらちら疱瘡小家の吹雪哉 一茶
疱瘡のさんだらぼしへ蛙哉
赤注連や疱瘡神のことし竹
いも神やはじめて笑ふ衣配
一句目は寛政六年(一七九四)、一茶がまだ駆け出しだった三十二歳のころの句。二句目の〈さんだらぼし〉は米俵の蓋のことで、藁で作った。これを天然痘患者の頭にあてると治るというおまじないがあった。一茶もさとのためにこれを行っている。四句目〈衣配〉(きぬくばり)は正月に着る晴れ着を贈ること。当時は目上の者が親類や奉公人に贈るのが習わしだった。年末の季語である。
一茶がくりかえし詠んでいることからわかるように、天然痘は大きな社会問題だった。ことに子どもが必ずといっていいほどかかる病気だったようで、当時の乳幼児の死亡率が高かったのも、天然痘によるところが大きかったと考えられている。形こそちがえど、ウイルスに苦しめられるのはいつの時代も同じなのである。
猛威を奮った天然痘ウイルスであったが、やがてオランダから輸入された牛痘苗によって克服される。一茶の時代からすこし下って、嘉永二年(一八四九)のことである。
現在、東京では新型コロナウイルス収束の気配すらみえない状況であるが、かつて天然痘を克服したように、新型コロナウイルスもまた、人類は遅かれ早かれ克服するだろう。
むしろ問題はその後ではないか。
コロナ以前の傲慢な世の中にもどるのか、さまざまな反省に学んで前進するのか。われわれが本当に試されるのは、コロナ収束の後であろう。
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