砂町銀座周辺 治兵衛稲荷神社
きのうの続きです。
帰路、いろいろ撮ってみました。
平日なので落ち着いていますが、
テレビなどで取り上げられることが多いため、
土日は結構賑わいます。
商店街を一筋逸れた通りです。
ここも下町の空気感が漂います。
「稲荷通り」だそうです。
治兵衛稲荷神社。
いままで素通りしていましたが、立ち寄ってみました。
このあたりは江戸時代に埋め立てられ、開拓された町ですので、
日本でも歴史が浅い土地です。
もっとも、浅いがゆえの独特な奥深さがあり、そこが魅力です。
江戸時代・慶安(1648年)のころ、
このあたりを開拓した治兵衛という人物が建立したことから、
「治兵衛稲荷神社」という名でいまに残っているのですが、
建立した人物の名前がそのまま神社の名前になる例は、
珍しいのではないかと思います。
ユーモラスな狛犬。
歴史が浅いとはいえ、400年ほども経っているわけで、
それなりに味わいとロマンが醸し出されています。
いまも町会でお祭りが行われているようです。
一見、よくあるふつうのお社ですが、
この町の成り立ちにはるかな思いを馳せたくなる神社です。
砂町近辺も面白い場所がたくさんありますので、
季節が落ち着きましたら、またご紹介したいと思います。
今週も災害級の暑さが続くとの見通しです。
くれぐれもご自愛ください。
【追記】まとめ
江東区砂町の「治兵衛稲荷神社」は慶安年間、
このあたりを埋め立て、開拓した「治兵衛」によって建立されました。
近江もしくは京阪の商人であったと思われる人物です。
「治兵衛稲荷神社」は開拓したこの村の商売・産業の発展を願って、
京の伏見稲荷から勧請したものです。
おそらく治兵衛はリーダーシップがあり、人望も厚かったのでしょう。
彼の没後も「治兵衛稲荷神社」と呼んできたのは、
この土地の人びとが開拓者・治兵衛のことを敬っていた名残でしょう。
いまでは治兵衛を知る手がかりすらありませんが、
わたしたちが住む土地が、
一朝一夕で成り立っているものではないこと、
多くの祖先の努力によって今があることを教えてくれます。
ちなみに「治兵衛稲荷神社」が建立された慶安年間といえば、
芭蕉がまだ幼い頃。
およそ30年後の延宝8年、
芭蕉は当時のニュータウンであった深川に移住してきますが、
芭蕉が深川に住むことができたのも、
のちに波郷が砂町に住むことができたのも、
治兵衛をはじめとした深川・城東地区の開拓者の存在があってのことです。
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