一茶が住んだ場所
当時は愛宕山別当勝智院というお寺でした。
一茶はその蔵(倉庫)を間借りして、住まいにしていました。
住職の白布という人が一茶とおなじ葛飾派に所属していたため、
その縁で住まわせてもらえたようです。
とはいえ、蔵(倉庫)ですので、人が住むようには作られていません。
夕桜家ある人はとく帰る 一茶
ここに住んでいた時に詠んだ句です。
当時、一茶はまだ何者でもありませんでした。少しばかり俳壇で名が知られた程度。
家はもちろん、地位も名声もお金もなく、なんとか蔵に住まわせてもらっていた立場です。
「古志」4月号講演録「「一茶と双樹〜「利根川は」の巻を読む」でふれていますが、
この大島稲荷神社は小名木川に面しています。
江戸は都市の縦横に水路が発達していました。
日本各地から舟で江戸まで物資を運ぶため、運河が建設されたのです。
イギリスでも産業革命のおり、盛んに運河が開削され、近代化の礎となりましたが、
江戸でも日本なりの産業革命が起きていたわけです。
なかでも小名木川は主要な運河でした。
一茶も舟を利用していたと思われます。
ここから舟で流山(千葉県)まで行くことも出来ます。
つきあたりは旧中川です。うっそうとした緑が見えます。
旧中川が南北に流れ、そこへ東西を流れる小名木川が突き当たるのです。
4月号とあわせて読んでいただければと思います。
ところで、この大島稲荷神社にはもう一人ゆかりの俳人がいます。
読めますか?
五月雨をあつめて早し最上川
そう、芭蕉です。
こんなお顔でしたっけ?
それはともかく、
芭蕉は小名木川を舟で行く途中、ここでわざわざ下船して参拝し、
秋に添うて行かばや末は小松川 芭蕉
と詠んだといわれています。
小松川はこのあたりのことを指す地名です。
像のとなりの「女木塚(おなぎづか)」は芭蕉の盟友・山口素堂の門人たちが建てたもの。
建立年次は未詳。見た感じ、かなり古いです。
一茶が所属していた葛飾派は素堂を祖とする流派ですので、ここで一茶とつながります。
それこそ白布あたりが建てたものかもしれません。
ところで、芭蕉さんはしっかり鎮座していますが、
肝心の一茶の姿が見当たりません。
数年間住んでいた一茶よりも、ちょっと立ち寄っただけの芭蕉のほうが大事にされています。
仕方ないことですが、悲しいことです。
関係者の皆様、一茶のほうもぜひよろしくお願いします。
以下、おまけです。
境内のゼラニウム。いちおう夏の季語です。
出世開運の牛だそうです。
皆様に幸運が訪れますことを。
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