『俳句界』2011年8月号「俳句界now」より
波寄せて詩歌の国や大旦 大谷弘至
昨年(注:2010年)、第一句集『大旦』を上梓した。掲句から「大旦」をとり集名とした。この句を作ったのは、かれこれ五、六年ほど前のこと。日本は名もなき人々によって詩歌が詠み継がれてきた稀有な国。未来もそうあって欲しいという思いからであった。
3.11。東日本大震災。東北を大津波が襲い、多くの尊い命が失われた。すぐさま追い討ちをかけるように原発問題が起こった。
こういった大惨劇にあっては、もはやこの国は「詩歌の国」どころではない、そう絶望的に考える人がいても、それはしかたがないことだ。しかし、ぼくはこういったときこそ「詩歌の国」であるべきだと信じている。
おもえば、この国の山河の津々浦々には天災や人災の記憶が深く刻まれている。ふだん、そこに住みながらそれに気づかないけれども、われわれの周囲には鎮まらない魂たちの声が充満しているのだ。河川の氾濫で流された村や地震で倒壊した集落。戦火に焼かれた町。過去のこういった例を挙げていけばきりがないだろう。
こうしてくりかえし起こる悲劇をその都度われわれの祖先は克服してきた。今日のわれわれの自然観や人生観――それはときにアニミズムと呼ばれたりするもの――は、そういった悲劇を乗り越えていくなかで醸成されていったものだろう。そして近世以来、庶民が拠りどころにしてきた俳句。名もなき人々の自然や人生に対する切なる鎮魂の思いが凝縮され、高度に洗練されていったもの。それこそが俳句ではないか。
平静のときであれ、危機のときであれ、また、作者が意識しているか、いないかに関わらず、俳句を詠むということは、かならずどこかでこの国の山河への鎮魂の思いへと繋がっていくように思う。
この国が「詩歌の国」であり続けることを信じつつ、これからも俳句とともにありたい。それはすなわち、この山河をさすらう魂のひとつひとつと向きあって生きていくことであるからだ。
(大谷弘至)
『俳句界』2011年8月号より転載
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